平成2年「浮野の里・ふるさとの道」加須市の整備構想の中で使用された、加須市北篠崎及び多門寺の両地区にまたがる、125ヘクタールに及ぶ地域です。
浮野の里は「武蔵野の面影」を残す美しい農村地域であり、周辺には屋敷林や田掘り、クヌギ並木など田園環境が保全され、平成7年度には全国「水の郷百選」に認定され、平成19年度には埼玉県より「緑のトラスト保全 第10号地」に指定されています。
昔から、アサマヤ(アサマ:昔の所有者の屋号、ヤ:原野の意味)と呼ばれ、長老からはアサマヤはウキヤだ、とも聞かされた。
明治43年8月の洪水、昭和22年9月のカスリン台風による洪水のときも、周囲は水をかぶり、水没したにもかかわらずこの「浮野」の一部は浮上した。洪水のときに浮く原野という意味もある。
今からおよそ2万年前、最終氷河期に東京湾の海水面が130mも下がり、東京湾の海水がなくなり広い海岸平野になった。
そこに、陸を流れていた利根川、荒川、その東側を渡良瀬川、思川が流れるようになり、川の流れたところは峡谷、残された部分は台地として残った。
加須もその頃は、大宮から館林につながる台地の上にあり、この台地も長い間には川によって浸食されて、丘あり谷ありの変化にとんだ地形となった。
最終氷河期が終わり、再び気候が温暖化し、海水面も上昇し現在の海水面より1~2m高くなり、関東平野の奥くまで海水が浸入してきた。
この時代にできた湾を「奥東京湾」と呼び、縄文時代の前期約5000年前で、その波打ち際が「浮野」の地下と考えられる。波によって削られできた岸、谷に海の堆積物が堆積した。
さらに、弥生時代、古墳時代にかけて加須とその近辺が沈み始めた(関東造盆地運動)。 そこに、西側を流れていた利根川、荒川が侵入し、川の堆積物が体積して、現在に至っている。
地下の古い地層から地下水が湧き出し、「浮野」に低温と湿り気を与えていると考えられる。
「浮野」には、現在では山の湿原でしか見られない植物が自生している。ノウルシ、トキソウ、カキツバタ、エゾミサハギ、クサレダマなどである。
その中のノウルシは、トウダイグサ科の多年草で、環境省及び埼玉県から絶滅危惧第二類に指定されている。約1,000平方メートルの群生地があり、4月上旬には鮮やかな黄色に色どる。
※浮野の希少植物は、現在、保全・増殖のため観察をご遠慮いただいております。ご協力下さい。
明治20年にできた「多門寺村誌」によると、天明年間の浅間山の噴火(1783年)により火山灰がこの地域に降り、川の底が浅くなったため洪水が多く発 生。洪水を防ぐために堤防を築いた。との記述が見られる。クヌギ、コナラは、土手の強化と当時不足がちの薪炭材として植樹したものと考えられる。
江戸時代以前にも、稲作は行われていたと思われるが、村松佐左衛門による川俣での会の川締切り工事をはじめ、利根川の東遷事業・用悪水路の整備により江戸中期・後期に新田開発が盛んに行われるようになった。
低湿地の当地区では、土を堀上して水田を開発した。その名残が田掘りと思われる。
低湿地の水田では、稲の刈取りの時期まで水があり、刈り取った稲を舟で束ね、また、洪水もしばしば起こり、避難、連絡、食料、飲料水の運搬にも使用した。
会員による植栽。アヤメ科の植物で、原種はハナショウブで多くの品種がある。花菖蒲園には、約3,000株のハナショウブがある。